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【丹羽孝さん】古代文字と和歌(8)

「霧」のむこうは

「霧」とは

今回は霧を取り上げます。言うまでもなく霧とは、晴れた日の朝方など、放射冷却現象などにより地表付近の空気が冷やされ、飽和水蒸気量を超えた水が細かい水滴となって漂う現象です。気象庁のホームページに記載されている「予報用語」の定義によると、「霧」とは「微小な浮遊水滴により視程(水平方向での見通せる距離)が1km未満の状態」を言うそうです。
霧とよく似たものに「靄(もや)」と「霞(かすみ)」がありますが、靄は「微小な浮遊水滴や湿った微粒子により視程が1km以上、10km未満となっている状態」を言う一方で、霞は「気象観測において定義がされていない」ために天気予報では用いない用語だ、とのことです。
自然現象としての霧は、車や船舶の運航に危険であることから濃霧注意報が出されたりする厄介な存在です。しかしその反面、兵庫県朝来(あさご)市の竹田城や岡山県高梁(たかはし)市の備中松山城では雲海となって「天空の城」を演出したり、伊予の小京都・愛媛県大洲(おおず)市では、肱川(ひじかわ)沿いに吹き下る強風に流された霧が、町を飲み込んでかつ沖合まで広がる「肱川あらし」のような壮大な景観を演出したりもするのです。


中国の「霧」

・「霧」の古代文字

では、いつものように古代文字と字義を見てみましょう。秦の時代に広く用いられた篆文では、「霧」は(図1)のように書かれます。
白川静先生の『常用字解』で「霧」を引いてみると、後漢の時代(西暦100年頃)に許慎(きょしん)という学者によってつくられた『説文解字』という字書に

地气(気)發(はつ)して、天應(おう)ぜざるを霧と曰(い)ふ
(大地から気が起こりながら、天がそれに反応しないものを「霧」という)

と書かれているのを引用しながら、「『きり、きりたつ』の意味」だと説明されています。ちなみに、清の時代(19世紀前半)に刊行された『説文解字』の注釈書(段玉裁『説文解字注』)では、この「霧」が「雨」の部首に含まれている理由として、

地气(気)發(はつ)して、天之(これ)に應(おう)ずれば、則ち雨ふる
(大地から気が起こり、天がそれに反応すれば、雨が降る。)

と述べています。「霧」は「雨」の一歩手前、という解釈のようです。


(図1)「霧」の篆文(漢字古今字資料庫の画像よりトレース)

・「靄」の古代文字

次に、霧とよく似た「靄」の古代文字を見てみましょう。「靄」の篆文を(図2)に示します。
やはり白川静先生による漢和辞典、『字通』で「靄」を引いてみると、

[説文新附]十一下に『雲の兒(こ)なり』とし、……[1]もや。[2]たちこめる。草木には■といい、雲霧には靄という。

と説明されています(■は「くさかんむり+謁」の字)。
『説文新附』というのは、宋の時代(10世紀末)の徐鉉(じょげん)という学者が、『説文解字』の見出し語として付け加えた字(とその説明文)を言います。徐鉉は、当時ほとんど存在を忘れられていた『説文解字』がどのような本文であったかを研究し、本文中に登場しながらも見出し字に含まれていない字を抽出して、それを『説文解字』の本文の後に付け加えました。それが、ここで『説文新附』と呼ばれているものです。
元に戻って『字通』の説明を見ると、靄は雲の子どものようなもので、あたり一面に「たちこめる」という点に特徴があると言えそうです。


(図2)「靄」の篆文(漢字古今字資料庫の画像よりトレース)

・「霞」の古代文字

また「霞」の古代文字も見てみましょう。「霞」の篆文を(図3)に示します。
『字通』によると、

[説文新附]十一下に『赤き雲气なり』とあり、夕やけどきなどに、遠くたなびく霧をいう。……[1]かすみ、あさやけ、ゆうやけ。[2]かすんだ状態、ひがさ、なまめかしい。[3]遐と通じ、はるか、とおい。

と説明されています。
霞は霧・靄とは少し違って、「赤」という色を呈しているほか、「はるか、とおい」という距離感を醸し出すものであるようです。現代の気象学では定義を持たない霞ですが、霧・靄にはない独特の特徴がうかがえます。


(図3)「霞」の篆文(漢字古今字資料庫の画像よりトレース)

日本の「霧」

話を日本に転じますと、和歌にもさまざまな霧が詠まれ、日本人の自然観が形成されてきたように思います。『常用字解』の「霧」の説明にも「きりたつ」という表現が見られましたが、「きりたつ」が歌われている和歌ということでまず思い浮かぶのは、百人一首の次の歌でしょう。


・立ちのぼる「霧」

村雨(むらさめ)の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮(寂蓮法師・百人一首87番『新古今和歌集』秋歌下 巻5-491)
(にわか雨が通り過ぎていった後、まだそのしずくも乾いていない杉や檜の葉の茂みから、霧が白く沸き上がっている。そんな秋の夕暮れ時であることよ。)

1930年代に宝塚歌劇団でデビューし、戦後も女優として活躍した霧立のぼるさんの名前の由来となった歌です。「まき」は、「真木」とも書かれますが、槇(まき)のような特定の樹木の名前ではなく、常緑樹一般を指します。
鬱蒼(うっそう)として露に湿った常緑樹の葉の間から白い霧が沸き上がってくるというように、視覚に訴えてきて、動きもあって、しかも「さびしい」という言葉がないのに、薄暗い「秋の夕暮」の寂寥感が伝わってくる歌であると漢字教育士は感じるのですが、皆様はどう思われるでしょうか。


・嘆きがこもる「霧」

先ほどの歌は、霧によってひっそりとした寂寥感を象徴したものでした。では、次の歌はいかがでしょうか。

君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾(あ)が立ち嘆く 息と知りませ(『万葉集』 巻15-3580)
(あなたが行かれる海辺の宿に霧が立ち込めたら、それはあなたと長い間会えないことを嘆く私のため息だとお思いください)

天平8(736)年6月、朝鮮半島の新羅へ派遣された外交使節、遣新羅使人(けんしらぎしじん)の妻が詠んだ歌です。妻は、遠い外国に出かけて帰ってこない夫を待ち焦がれて漏らすため息に、「海辺に立つ霧」を例えたのです。それに対してその夫は、次のように返歌をしました。

秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ(『万葉集』巻15-3581)
(秋になったら帰ってきて逢えるものをどうして霧に立つような深い嘆きをなさるのか)

でもこの遣新羅使人、実際は秋に帰ってくるどころか、壱岐(いき)の島では一行の一人の雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)を亡くし、秋になってもまだ玄界灘を渡れず、対馬(つしま)にいたのです。一行はなんとか新羅に着いたものの、日本と新羅の関係が冷却していた時期とあって、使者は新羅に受け入れられず、引き返します。帰途、使節団のトップである大使が対馬で病没するなどの波乱ののち、やっと大和に帰り着いたのは翌年、天平9(737)年1月だったといいます。妻の「嘆きの霧」はなかなか晴れませんでした。
海上に立ち込める霧の白く濃い様子に、なかなか戻らぬ夫を待つ妻の深い吐息の様子がうかがえるようです。
さて、霧から連想される人といえば、『源氏物語』の登場人物、光源氏の息子である夕霧が有名です。


・「夕霧」という名

山里の あはれをそふる 夕霧に 立ち出でむ空(そら)も なき心地して(『源氏物語』「夕霧」帖)
(山里の物寂しさを募らせるこの夕霧で、ここから立ち出でて行くべき空はどちらなのか、見定められない心地がします〈私は一人寂しく帰って行くことなぞできません。あなたと一夜をともにしたいのです〉)

この歌を詠んだのが、後世の読者によって「夕霧」と呼ばれることになる、光源氏の嫡男「右大将の君」です。彼は父・光源氏の言うことをよく聞き、学問もでき、幼馴染みの正妻(雲居の雁)との間も円満で、7人もの子を成していた真面目な男でした。その男がどうしたことか、従兄弟であり親友でもあった柏木が亡くなった後、柏木の妻であった落葉の宮(源氏の正妻・女三の宮の姉に当たり、「女二の宮」とも呼ばれます)に思いを寄せるようになります。この歌は、夫の死後に山里に閑居していた落葉の宮のもとを訪れた右大将の君が、募る思いを訴えて贈った歌です。「夕霧」とは、この歌にちなんでつけられた名前です。
真面目に生きてきたはずの男が、親友の妻であった女性のもとに通い出し、ついには結婚まで強行してしまいます。彼の正妻である雲居の雁としては、当然、夫による「夕霧の裏切り」行為に怒り、ひと悶着があって、物語的には劇的な展開を遂げることになります。
この右大将の君の突然の変身、一体彼の心の中で何が起こったのか、真相は霧に包まれたように分からない。物語の中の人物としては翳(かげ)のある、理解不能な、それが故に魅力的な男に変身した右大将の君の新たな名前として、先を見通せないもどかしさと薄暗さの相まった「夕霧」というのは、「霧」の字義にもかなったぴったりな命名であると感じます。宮中をひっくり返すような夕霧のスキャンダラスな行動は、先ほど見た『説文解字注』の「霧」の注釈にもあったように、「天」すなわち天子が反応すれば激しい「雨」を呼ぶかもしれない、危険な行動だったのでした。
どうして夕霧はそんな行動に走ったの? ひょっとして、父・源氏の血のなせる業(わざ)なの?……などなど憶測が憶測を呼び、稀代のストーリーテラー、紫式部のたくらみにまんまと乗せられ、読者はますます物語に没入していくことになるのです。
でも、霧はこのくらいにして、次は靄を詠み込んだ作品を見ていきましょう。


・包み込む「靄」

明治36(1903)年7月15日、ゴシップ的な社会記事で知られる日刊新聞、『萬朝報(よろずちょうほう)』の紙上に、「国音(こくおん)の歌」と題して、「ん」を含む48音を各1回だけ使った「無同音歌」(新いろは歌)20篇が掲載されました。その中で一等賞になったのが次の歌です(埼玉県・坂本百次郎さんという方の作品だそうです)。

鳥啼く声す 夢さませ       とりなくこゑす ゆめさませ
見よ明けわたる 東を       みよあけわたる ひんかしを
空色栄えて 沖つ辺に       そらいろはえて おきつへに
帆船群れゐぬ 靄の中       ほふねむれゐぬ もやのうち

一幅の水墨画のような情景、七五調のリズム、春の海辺の朝を(1字として同音を重複させることなく)48文字で描写しきった奇跡の歌です。私はこの歌の存在を知った時、日本語のはかり知れない可能性に感動を覚えたものです。
作歌の途中でだんだん使える字が少なくなり、不安を抱えつつ作り続けて、最後の句がジグソーパズルの完成時のように「びたっ」とはまった時、作者のうれしさはいかばかりであったことか。靄靄(もやもや)としていた気持ちが「すかっ」と晴れ、「どやっ」とガッツポーズでも出たのではないでしょうか。
「視程が1km未満ならば霧、1km以上なら靄」という気象学上の定義はさておき、この歌では「靄(もや)」でなければならないのでしょう。濃く深く立ち込めてまなざしを遮ってしまう霧ではなく、あたり一面をやわらかく包み込む靄にしたという作者の選択は、単にまだ使わずに残された文字を当てはめた、というだけではないように思います。


・たなびく「霞」

さて、霧・靄と見てきたからには、霞についても考えてみなくてはなりません。次の歌は、大伴家持が天平勝宝5(753)年2月に詠んだ「春愁三首」と呼ばれる3首の佳作の最初、霞を詠んだ歌です。

春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに 鶯鳴くも(『万葉集』巻19-4290)
(春の野に霞がたなびいていて心は悲しみに沈む。この夕方の光の中で、鶯が鳴いているよ)

霞がうっすらとたなびいている様子が描かれることで、野の広がりが効果的に伝わってくるようです。広く静かな夕暮れの野に、遠くから聞こえてくる鶯の声。その距離感が悲しさを増幅させるようにも思えます。先に見た『字通』の霞の説明でも、「はるか、とおい」という距離感が示されていたことが思い起こされます。
とはいえもちろん、霞がたなびくから悲しくなったのではなく、家持が悲しい心で霞を見ているから悲しいのです。天平勝宝5年といえば、聖武天皇による一大国家プロジェクトであった大仏開眼が行われた翌年。この頃は、藤原氏が台頭する一方で、名門貴族であった大伴氏の存在自体がまさに霞みつつあった時代だったのです。大伴氏の「氏の長者」として何もできない自分の不甲斐なさがたまらなく悲しかったのでしょう。
おなじ「春霞」でも人によって見え方が変わる例として、藤原後陰(ふじわらののちかげ)が霞と鶯を詠んだ歌と比べてみましょう。

花の散る ことやさびしき 春霞 たつたの山の 鶯の声(『古今和歌集』春歌下 巻2-108)
(花の散るのがわびしいのであろうか。春霞の立つ龍田山のあのうぐいすの鳴き声は)

『古今集』中に載っている後陰の歌はこの一首だけ。しかもこの歌の出来映えからもわかるように、歌人としての力量は家持と比べるべくもありません。春霞・鶯・寂寥感と、家持と同じ素材を詠んでいますが、歌の様子は少しも悲しそうでなく、まるで鶯に同情までしているかのような余裕すらあります。それは作者が藤原氏の一員だからなのでしょう。


最後に

以上、霧・靄・霞を詠んだ歌を見てきました。霧は「濃く深く立ち込める」イメージ、靄は「やわらかく包み込む」イメージ、霞は「遠い距離感を示す」イメージがあると言えそうです。
「濃く深く立ち込める」という霧のイメージは、現代でも比喩として生きています。例えば物事の本質、真実に迫れなかったり、意図的に隠されてしまったりする状況が、「霧の中」「五里霧中」「政界の黒い霧」などのように、霧を使って表現されます。当然、そのような使い方をされた場合は、その状況が消えることが期待されていて、霧の存在が肯定的に評価されることはあまりありません。
ところが、霧が晴れるどころか、帳簿が「切り」取られたり、ハードディスクが「切り」刻まれたりして、スキャンダル自体が「霧の中」どころか「闇の中」に隠されて、ついには雲散霧消してしまうことさえ多いのは、なんとも悲しいことです。
「靄靄(もやもや)」とすっきりしない状況が「霞が関」で起きるのは、もうこれっ「きり」にしてほしい……そう思ったことを数え上げれば「きり」がない、とぼやくことしきりです。
最後に都都逸をひとつ。

靄のうちには 帆船がいるが 霧のむこうは 闇がすみ


〔参考文献〕
白川静『字通』(平凡社)
阿辻哲次『〔新装版〕漢字学 『説文解字』の世界』(東海大学出版会)
吉原幸子『百人一首』(平凡社)
佐々木信綱(校訂)『新古今和歌集』(岩波文庫)
中西進(校注)『万葉集(1)~(4)』(講談社文庫)
林田正男『万葉の歌 人と風土(11)九州』(保育社)
玉上琢彌(訳注)『源氏物語(7)』(角川文庫)
織田正吉『ことば遊びコレクション』(講談社現代新書)
久曾神昇(訳注)『古今和歌集(1)~(4)』(講談社学術文庫)


筆者紹介

丹羽 孝(にわ・たかし)さん

1950年大阪府生まれ。電器メーカーに技術者として37年間勤務後、定年退職。学生時代から『万葉集』を通じて古典に憧れ、「漢字・日本語」についての理解を深めたいとの思いから漢字教育士を志す。2013年、2014年と奈良県生駒郡斑鳩町の小学校で放課後教室にて漢字授業実施(町内の全小学校で実施済み)。また子ども夏祭りでの「漢字縁日」を企画・実施。2014年からは公民館で、大人向けに『万葉集』を楽しく分かりやすくとの趣旨から「気楽に万葉集」講座も始めた。2014年10月の小学校での放課後教室を受講した5年生の児童から、「クラスのみんなにも漢字の話を聞かせてほしい」というオファーを受けて、11月に教室で「漢字の授業」を実施したところ、大好評。わずか45分間の授業で「漢字が好きになった」という子どもたちが続出。漢字教育士1期生。


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